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2005.12.30 Friday
横井のオッサンの歌
今日は替え歌を作りました。それは小学校唱歌の「スキー」(山は白銀 朝日を浴びてでおなじみ)のメロディーに乗せて、横井というオッサンみたいな顔をした学校の生徒のことを歌った替え歌です。それを以下に紹介します。
朝の早ようから 横井のオッサン
弁当かついで 学校へと向かう
道行く人に おはよの挨拶
横井のオッサンの 一日始まる
学校に着いたら 横井のオッサン
弁当の中身はと 授業は上の空
先生が怒っても すんまへんと
大阪弁で 頭下げる
学校の放課後 横井のオッサン
好きな女に ラブレタ渡す
君こそ命と もらった女
感動をして オッサンにキス
というような歌です。ただ書いたものを棒読みでは、今ひとつ臨場感がわかないかもしれません。しかし横井のオッサンというオッサン臭い顔をした大阪の学校の生徒の、おもしろおかしい行動を思い浮かべながら歌ってくれれば、おかしさがこみ上げてくると思います。ただここに軽蔑の色だけにおわしたのでは差別になります。滑稽な様子を描写すると同時にどこか愛嬌のある大阪のオッサンのような容貌の生徒を想像してもらえば、作る側としても成功したと言えます。替え歌の名人といえば嘉門達夫というお笑い歌手がいます。彼のお笑い替え歌はほんと聞いていると腹の底からわらけてきます。僕が目指しているのは作詞家ですが、これはいまはほとんど曲先といってメロディーが先に作られ、それに詞がはめ込まれます。それゆえにいわばメロディーに原曲とは違った歌詞をはめ込んで笑わせるという技術も一つの大きな作詞能力です。だから僕も将来こういう人をわらかせて感動させる歌詞を作詩できたらなと憧れています。
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2005.12.29 Thursday
平凡な一日。
今日も休みの日の一人でいる時のスケデュールをこなしてました。久しぶりに細かく書くと朝七時半に起きて朝食を取り、電車で神戸へ向かいます。電車の中では最寄の駅で買った漫画を読んでいます。そして三宮に到着したらまず第一に神戸新聞を買います。それを携えてドトールへ向かいます。今日も狙っているウエイトレスはいませんでした。仕方なしに神戸新聞を開け読み、アンダーラインを引っ張ってノートに整理しました。今日は昨日の夜何も勉強せずに帰ってすぐに寝てしまったので、今ひとつ文字をスムースに読めず、書くペン先のすべりも良くありませんでした。さてそこで二時間ほど粘って、ジャンカラへ場所を移しました。そして吉川栄治の「新・平家物語」一巻を読みました。そこでも目がスムーズに文字を追ってくれず、集中できなかったので本をかばんにしまって、歌を歌い始めました。最初幸田来未のリメイクでも有名な「キューティーハニー」を歌いました。僕らからしてみたら彼女の露出抜群の歌と踊りには驚きますが、名前は忘れましたが古いハニーを歌っている歌手のほうが哀愁を感じます。それから四、五曲歌って時間となりました。そこを出て今度はそごうで御座候(回転焼き)を買い、階段の踊り場でそれを食べながらもう一度「新・平家物語」に挑戦しました。今度は二十ページぐらい読めました。そして今度は上島コーヒーに場所を移しました。そこで主に書き物をしました。その内容は最近僕のブログを読んでくれている人にはわかる、女に対する男のいじめについてです。とにかく女の男に対するいじめにはもう飽きが来て、今度は男の女へのいじめ文化を創造していくべきということを書いてみました。内容はまた改めて書くとして、そのあとはサンパル(ショッピング街)の丹波屋で買った味噌団子を食べながら、西灘までのウォーキングに向かいました。しかしそれもところどころで幻聴が聞こえ、めまいもして今ひとつ良いものではありませんでした。そして西灘から御影まで電車に乗り御影に降りて、そこのこれまた行きつけのキーコーヒーで書を読み、書き物をしました。喫茶店を三軒も回るという浪費家のように見えるかもしれません。しかしドトールではアイスコーヒーのS、百八十円、上島コーヒーでは薩摩パン百四十円,そしてキーコーヒーでは三百八十円のアイスコーヒーですが、極力節約に努めてはいます。以上が僕が一人で神戸で過ごす時のスケデュールです。今日は総じてあまりぱっとしない調子の悪い一日でした。
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2005.12.27 Tuesday
男女の間のいじめの考察
今日はこれからいつもの通り神戸へ行こうと思います。あの狙っているウエイトレスの娘、いるでしょうか。何しろこないだ「一緒にお茶でも飲みに行きませんか」と誘い、そして「また来るから考えといて」といった手前、今度会うときが勝負といえば勝負です。果たしていい返事くれるでしょうか。断られたときのことを思うと、今日はいないほうがいいのにと弱気になったりします。しかし「当って砕けろ」ですよね。たとえ振られても「それじゃ他の男と幸せになってください。」とかっこつけて立ち去ればいいんですよね。しかし思えば僕も何人の女性に告白し、ふられたんでしょう。二つの指以上行っているかも知れません。しかしそれぞれに思い出もあって、それはそれでよかったかもしれません。しかし今度こそ近藤マッチの「純情物語」の歌詞じゃありませんが、「最後の女になってくれよ」と叫びたいものです。
さて神戸から帰ってきました。行きつけの喫茶店へ行ったのですが、彼女はいませんでした。また明日か明後日に勝負は持ち越されました。何かほっとしたというか、断られるかもしれないという不安から解放されて胸をなで下ろした気分でもあります。しかしめそめそとしていてはいけません。もっとそれが空のそれであっても元気を出して力強く、次の一歩を踏み出さなければなりません。彼女とセックスしたい。そして思いっきりかわいがってあげたい。それどころか彼女がもういいっていっても許さず、いたぶるぐらい激しく迫りたい。この前書きましたが、女をいじめるぐらいの激しいセックスをしたい。男に対する女のいじめはもう飽きた。これからは男がもっと女をいじめて感じさせてやるべきです。特にこの関西というのは、女上位、かかあ殿下で女が男のプライドを踏みにじって、女が男をいたぶる色彩が強いように思えます。それゆえに男が女をいじめてセックスするという文化は関東ほど発達していないように思えます。具体的に言えば、郷ひろみの歌う最中のダンスというか振り付けは、明らかに女をしびれさせ、その性をいじめます。また水木一郎の正義や愛や勇気や犠牲を歌うアニソンは女ばかりではなく男をもしびれさせます。このような女をしびれさせ、性的にいたぶり、いじめるような文化。これを関西でも創造しなければいけません。僕も彼女をその標的にしたいと思います。女は男にやさしさを求めます。しかしモーニング娘の「色っぽい、じれったい」の中のフレーズに「やさしくされりゃうれしいけど、限りなく求めちゃう」というものがあります。極端に言うとやさしくなくても、自分をセックスで行かせてしまうという男のほうを女は選ぶ場合もあるのです。セックスの強い男には、単に性欲絶倫というだけではなく、男として人間として何らかの卓越性があることを女は暗黙のうちに認めるのでしょう。やさしいだけではなくそれにプラスアルファが必要だと思います。その中でとりわけ魅力的なのが、意地悪やいたづら精神だと思います。これは基をただせばいじめ心からきていると思います。いじめといえばみな悪い感情のように思われですが、人を不幸にするいじめではなく、幸せにするいじめもあると思います。僕はこれをこの大阪で広めたい。そしてそのパイオニアになりたいと思います。いじめいじめといいますが、僕にはそこに男のロマンがあります。関西女にはわからないのでしょうか。いやわからないというより、彼女達は男にロマンだといってかっこつけさせるのが腹立つのかもしれません。残念ながら関西の女の男に対する認識はこんなものです。「男にええかっこされたら腹立つんじゃ」と思う女も多いのでしょう。女の本音を持ち出すとこうなります。それゆえ関西男はもっとがんばらねばなりません。いままでえらばって来た女をギャフンと言わすためにも。僕も冒頭で言った今度出来るかもしれない彼女に、言って聞かせて納得させようと思います。そのことが彼女をもっとも幸せにする方法だと信じています。
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2005.12.25 Sunday
男の女へのいじめ
今日は一人で神戸行ってました。いつものスケデュールをこなしたのですが、ウォーキングがうまく行きませんでした。またまた幻聴とめまいに悩まされました。しかしその後の御影の喫茶店で年賀状を書き、何とかめまいを治しました。
それからノートへの書き物もしました。今日一つ思ったテーマは男の女へのいじめについてです。現在は女の時代、女のいじめというものはマゾな男とサドな女の増加で語られますが、男の女へのいじめというのはセクハラにされてしまいます。しかし果たしてそうでしょうか。僕には男の女へのいじめというものが性欲を沸かせます。長く続いた女の時代の女の男へのいじめというものはどこか形骸化しています。それによって男はオナニーは出来てもセックスにはつながりません。男の女への意地悪、いたづらなどは全てこのいじめ心に発しています。この男の女へのいじめ心。これを僕は持ちたいと思っています。それにはやはり女の上に立たねば無理かもしれません。とにかく男を挑発する女のいじめには飽きてきました。そこにまったくかつてのように男の抵抗がありません。それゆえ視線をぶらせて、男の目を悪くすることでしか意味を成していないのです。それに男の女へのいじめ、具体的に言うと女をその気にさせオナニーさせてしまうような男の振る舞いのようなことでしょうか。これはセクハラではありません。しかし女はそんなことを男に知られたら困るので、みなこれをセクハラといって攻撃してきます。しかしここです。男が踏み止どまなければならないところは。ここで踏みとどまる男が少ないため、現在は性情報が氾濫しているのとは裏腹にインポテンツ、不感症社会になっているのです。確かに男の女へのいじめ、これが度を越すと性的嫌がらせとなって、女を不快にさせてしまうのでしょう。しかし兎に角いまの時代何でもかんでも男の女へのコンタクトをセクハラにし過ぎです。過剰反応しています。とりわけ女社会の関西では女の目は厳しいものがあります。男の女に対するいじめは文化になっていないのかもしれません。女が見たり、聞いたりすると思わずオナニーしてしまうような男の文化。これを関西にも創造しなければいけないと思います。女にいじめられてばかりでは、男の面目もへったくれもありません。また男も生理的にむやみやたらに女をいじめたりするようには出来てないと思います。それでもセクハラが絶えないのは、やはり男と女の文化のどこかしらの歪みから来るのでしょう。やはり女が男を挑発して男の何をいきり立たせて、自分の魅力を誇示したいと思っているのと同じく、男も女ほどではないにしても、女に発破かけたり、挑発したりして夢中に、換言すればオナニーさせるほどの振舞をしたいと潜在的に思っています。しかしそれがまたまた女の男へのいじめ返しとなり、文化として認めてもらえないのが関西の恐いところでもあります。僕はこの新しい文化を創造したい。そのパイオニアになりたい。女にいじめられて、惨めにオナニーばかりをしている関西の男があまりにもかわいそうに思えます。それが関西の男女の仲だとすればあまりにも女中心の社会で、男の立つ瀬がありません。あまりにも男が惨めです。何とかこの関西にも女をしびれさせ、「あの男腹立つ」(標準語で言えば「あの男憎らしい」)と思わせるぐらいな文化を創造したいと思います。それが引いては女の幸せにもつながると信じています。
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2005.12.22 Thursday
大阪探険西成区編
今日は作業所グリーンハウスの行事の大阪探険、西成区編でした。ところが朝から雪でしかも気温自体は零度を超えているので、服についた雪が解けてびしょびしょになるという悪コンデション中決行されたのでした。しかし何回もやっているとワンパターンになる中、今日は天候が変化をもたせてくれたんだと考えれば、また後日記憶にも残って語り草にもなるだろうと、プラス思考で同行する仲間と励ましあいながら歩きました。とはいっても来た仲間というのは僕を入れて三人のみ。そして指導員さんが一人で、出発場所で地図とラリーポイントの問題を書いた紙を渡され、彼女は帰りにもらう景品を買って最終ポイントに約束の時間に来るまで、どこかで時間をつぶしていたようです。まあそれも暇といえば暇ですが、僕たちは雪が舞い振る中地図と問題用紙をぐしょぐしょにしながら懸命に歩きました。そのポイントはいつもと同じく、神社や寺がほとんどでした。全部で六ポイントとあったのですが一番わからなかったのが五ポイント目のポイントで場所がわからずキョロキョロ右往左往してました。するとあの辺にありがちな大阪の親切なおっちゃんがいろいろあそこちゃうかと、わざわざ付いてきて教えてくれたのですがとうとうわかりませんでした。もう目的地のタイムリミットの十二時直前だったのでそれは飛ばして最後の六ポイント目へと向かいました。そしてそこもわからず、ちょうどそのそばの家から出てきた人に聞いたらそこの裏になるんだけど、そこへ行くためにはこちらから回っていかないといけませんとこれまた親切に誘導してくれたのでなんとか無事到着することが出来ました。西成というのは愛隣地区で何か暗いイメージが付きまといますが、さっき言ったように親切なおっちゃんもいて雪の中をあたかも八甲田山の雪中行軍のように歩いたこともあり、印象深いラリーとなりました。しかし不満に残るのは指導員さんも言っていましたが、参加人数の少ないところです。決して強制ではないので参加は自由とはいえ、その日に作業の代わりに行事として一日設け、ミーティングによりみんなで決めたことなんだから、少々苦手でも参加しないとその意味が問われると。そして指導員さんたちにもそのラリーの問題を作るためにそこまで下見に行き、知恵を絞って問題を作ってくれたのです。だからその苦労にも答える意味で参加しなければ彼らの苦労と努力と愛情をを不意にしてしまいます。この大阪探険というのはそれまで決めていたレクエーションの内容が映画化カラオケかとワンパターン化していたので、指導員さんたちがアイデアを出して作ったものです。大阪に住んでいても意外と二十四区ある区の一つ一つに何があるかというのは、まったくといっていいほど僕たちは知りません。かつ地図を使ってポイントを探してラリーしていくというのは、簡単なようでなかなか頭のいるものです。こういう楽しみながらも知恵を使って勉強になり、知識を増やし、知能を高める機会というのは非常に大切で、また願ってもないチャンスだと思います。これがまだ始まって間もないのですが、二十四区すべて終わる頃にはどれほど大阪のことに詳しくなり、地図を見る能力がついているか楽しみです。本当その意味でも指導員さんに感謝しなければなりません。
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2005.12.20 Tuesday
ウォーキング
今日は西宮の兵庫医大への通院日で、その後神戸へ出かけてました。いつものスケデュールをこなしたのですが、今日思い浮かんだ問題意識はウォーキングの際の歩き方です。その中の足の裏の使い方についてです。本によるとまず踵の外側から着地して親指の内側に抜けるような感じで最後に蹴ることが理想のようです。そのためにはつま先を開いたりせず進行方向に向けて蹴りだすことが大切です。若いまだ今のように太ってなくて日本アルプスの山を歩いていた頃は、思い起こせばそういう歩き方をしていたような気がします。しかし病気になって太りだしてから歩き方が乱れ、その頃よりも歩くスピードもずいぶん遅くなってしまいました。若い頃と同じようには行きませんが、少しでもフォームを正して歩き、よりウォーキングを洗練しようと思っています。そうすると歩いている間眺めれる景色もより鮮明に見え、今日のウォーキングはすこぶる気分がよかったです。分析するといつもつま先を開き気味に惰性で歩いていたのを、つま先を進行方向へすぼめることによって、腰の位置に適度な波を保てるようになり弾むような感じに歩け、より白筋(瞬発力をつかさどる筋肉)を使って歩けました。これで歩けるようになると周囲の眺めている物体もより鮮明に見えるので集中力も高まり、ただ歩くだけの惰性のそれでなく、より良いウォーキングが楽しめるように思えます。どうも最近ただ惰性だけで歩くので、周囲の景色もぼやけて見え集中力を高めて歩くことが出来ず、僕の病気であるどこかの窓から人が覗いていて「あのオッサンウォーキングしとる」と馬鹿にされたような気配がしてなりませんでした。それもこの美しいフォームで集中力を高めて景色を眺めながらウォーキングできれば、解消していくような気がしてきました。僕は小さい頃から腰に持病を持っていて、それを治す術を知らなかった時は、歩き方がおかしいとずいぶん周りの人から指摘されました。それゆえ水泳と山登りとぶら下がり健康器で懸垂をやることによって、少しずつ腰のゆがみを治してゆきました。しかしその間に病気になったりしてまた悪化させたり、一進一退を繰り返していました。いまになって今度こそ治していけるような気がしてきました。たかが歩きといいますが、これがうまくこなせるかどうかで、文章を書く時の調子のよしあしまで左右されるような気がします。今日はその影響ですこぶるペン先がすべるならぬ、指先が軽快です。とにかくたかが歩きとそんなに大げさに言うことはないやろと言われる人もいるかもしれませんが、腰の持病の悪化でスポーツはウォーキングぐらいしか出なくなった僕です。だからこのウォーキングがうまく出来るか否かというのがというのが生活の中でも重要なファクターなのです。とにかくこの調子でどんどんレベルアップしていこうと思います。
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2005.12.13 Tuesday
クリスマスまでには
今日は仕事が休みで神戸へ出かけてました。以前にも書いた今狙っている行き着けの喫茶店のウエイトレスに会いに、朝早くから出かけました。しかしその子はいず、仕方ないので一人神戸新聞を広げて読んで、アンダーラインを引っ張ってノートに要約していました。二時間ぐらいてそろそろ場所を変えようと思い二階から一階に降りていくと、なんとその子が現れました。カウンターにいる他のウエイトレスの手前、小声で「おはよう」というとかわいく会釈してくれました。その黒い瞳がかわいく、美しくてつい感動の余韻を覚えました。「いける。まだ脈は切れてない。大丈夫だ」と確信しました。しかし今度会えるのは週末の土曜日か、日曜日です。「その時こそ決めてやろう。」彼女をお茶に誘ってみようと思ってます。しかしぶっちゃけた話僕は風俗以外の女性と交渉したことがありません。だから風俗とは違って男主導となるセックスで、彼女を満足させてあげることが出来るのか不安です。しかし夢としては彼女を幸せの絶頂に登りつめさせて失神させてやるなどという大見得も切ります。ラブホは僕の作業所の収入からしたら高いので、カラオケボックスで楽しもうなんていう計画も立ててます。とにかくクリスマスまでに告白したい。彼女頷いてくれるでしょうか。いまは冬。寒いから彼女を抱きしめて温めて上げたい。そしてあの最中では,彼女も積極的になって欲しい。とにかく寒いから体中をなで触って、こすりもんでペッテイングで彼女をその気にさせたい。もう彼女がびっくりして「もうだめ。もう止めて。」といっても許しはしない。失神するまで攻めて攻めて攻めまくろうと思う。彼女を幸せにするのなら死んでもいい。そうとさえ思えてきました。しかしこうなってきたのも僕の運勢もここに来て大きく吉のほうへ傾いてきたのかもしれません。彼女と結婚したいとまで「捕らぬ狸の皮算用」を想像しています。そして前にも言いましたが、「俺は男」などということはよっぽどのことがない限り言わないでおこうと思います。男女平等、自由と平等の恋愛と結婚というポリシーで進めて行こうと思います。いままで「男が男が」そして「男は上に立ち女は従うもの」というポリシーの下生きてきた僕にとってより難しい道です。、しかし自由と平等というものもいいものです。男が謙虚で控えめにしてる分、女もそれに感じて反って男に感謝し尽くしてくれるような気もします。かといって勇気を失くして女にバカにされるようなことはしたくありませんが。とにかく今度会う日まで自分の意見をしっかり持って、彼女に告白できるよう研鑽しようと思っています。
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2005.12.09 Friday
カラオケ論
今日は作業所の行事でコーラスがありました。クリスマスソングを五曲ほど歌いました。その内訳は、「ジングルベル」と「きよしこの夜」と「諸人こぞりて」と「真っ赤なお鼻のトナカイ」、「もみの木」を合唱しました。一人指導してくれる先生がいて、その先生が歌のウォーミングアップのための体操や発生のリードを取ってくれます。中にはペンギン歩きで歩き回りながらの発声や、パートナーを作って背中をたたきながらのそれ、手を打ちながらのリズム取りなどユニークな発声法があってこっけいに見えますがそれをやった後なるほど声がやる前よりよく出ます。みんなが知っているクリスマスのポピュラーな歌なのでみんな懐かしげに童心に戻って声を上げてました。僕もクリスチャンではないのですが小学校六年間を除いて、幼稚園から大学までずっとキリスト教主義の学校に通ってました。それゆえキリスト教と大いにかかわりのあるクリスマスソングは懐かしく、歌いながら思わずその懐かしさに涙腺が潤んできました。カラオケもいいですが、キーボードの伴奏で肉声で合唱するのもまた乙なものです。年配の人に聞いたのですが、カラオケがはやる前の「歌声喫茶」ではこういうことをしていたそうです。だから僕もカラオケを歌うとき、時々マイクを使わずに歌います。マイクを使わないで歌うとスピーカーの伴奏をよく聞いて歌えます。マイクばかりを使っているとついついマイクの機会音がメロディーを打ち消してしまって、独りよがりで歌っている時があります。それを修正するためにもマイクをはずして歌うということも必要だと思います。これは機械の伴奏に負けないで歌おうとするため、よりうまく歌えるためのトレーニングになると思います。まだやったことない人は是非試してみてください。特にジャンボカラオケ、通称ジャンカラは昼間は三十分百四十円で飲み放題歌い放題なので一人で行く客もよくいます。そういう僕もよくいきます。人と一緒にいるときはマイクをはずしたりしたら「何をしてるんや」と言われる可能性もあるでしょうが、一人で行くのなら何の気兼ねもする必要もありません。だからこういうチャンスのときにマイクをはずして歌ってみることをお勧めします。それからもう一つカラオケをうまく歌うためのポイントは、特にダンスポップスなどでは、ダンスを真似することまでは出きないでしょうが、韻を踏んだり強調したいところで、手を動かしてみたり、足のかかとを踏んで見たりするとより声が強調されて聞き手に届きます。そのアクションをよくやるのは郷ひろみです。彼のダンサブルなポップスを見ていると、ターンをしたりジャケットの前を引っ張ってみたり所ところでそのアクションを見れます。そういうところも取り入れてみるとここで力を入れてみたいというところで力が入り、よりリズムに乗って歌えるようになります。こういうちょっと高みからアドバイスしている僕も、実際は言ううほどに歌はうまくないのですが、カラオケはボックスが次々に出だした頃から途切れずに通っているので、「亀の甲より年の功」ちょっとはアドバイスできると思い書いてみました。これからクリスマス、お正月とカラオケやコーラスする機会も多いでしょうから、是非その腕を磨いておきたいものですね。
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2005.12.06 Tuesday
公約破り
今日は神戸の友達の家に行ってました。その子とは以前に入院した病院がおんなじという縁で、なんだかんだといいながらも六年も交流が続いている後輩です。しかしその子はまた様態が悪くなって入院していて、いま外泊に家に戻っている最中で、励まそうと思い会いに行きました。しかしその子も入院する前は仕事に就いては止めを繰り返し、そのたんびにお父さんにうるさく言われ、完全に自信を失っていて、幻聴は聞こえるやら大変だったそうです。しかし今日ちょっとあった限りでは、四ヶ月足らずの入院で元気になるどころか逆に自信を失くしているのではと心配していたのですが、どうやらそれは取り越し苦労のようで丸々太っていて元気そうにしていました。それは彼の家族もなにより喜んでいることだと思います。彼とは女の猥談話からまじめなこれから将来の話まで、ざっくばらんに話し合えるよき後輩です。その子も僕たち他の精神障害者と同じく、音楽やスポーツに関しては相当な実力があるのですがそれが仕事に生きず、残念ながら退院したあとどんな仕事をしてゆけばいいか決まっていません。しかし彼にも僕にも夢はあります。僕は作詞家として生計を立てること。そして彼はどんな仕事でもいいから安定した収入を得て、結婚し、子供を育てることで、僕以上に大きな体をしているのですがそれとは裏腹に、女の子がよく言う月並みで、ささやかな幸せを夢見ているようです。人間どんなときにも夢を失ったらお先真っ暗闇ですよね。けれどたとえどんな困難な状態に立たされようとも、夢と希望を持っていさえいれば耐えてゆけます。何か彼と会って僕が励ましてやらねばならないのに,逆にこちらのほうが彼のどん底にいながらの必死のもがきを見せられて励まされました。僕は今年の年始にどんな微々たるものでもいいから作詞で収入を得れるようになるという一年の計を立てましたが、その公約とうとう果たせませんでした。まだわかりませんが、来年の年始には同じ誓いを立てるだろうと思います。来年こそはその公約を守る飛躍の年でありますように、いまからがんばります。
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2005.12.05 Monday
タイムイズマネー
今日は作業所を終えた後、近くの友達の家に行き、コーヒーをご馳走してもらいました。しかし彼の家は何も遊ぶ道具がないので、その後僕の家にも呼んで今度はココアと菓子を出して歓待しました。僕を合わせて三人だったのですが、三人で将棋のひょこ回りや、山崩しをして楽しみました。そして本将棋を僕と一人の人とやり、僕の圧倒的勝利でお開きとしました。今日は取り立てて書くことはありませんが、僕らぐらいの年になると単に遊びに来るのではなくして、自己啓発も含んだ一緒にいて実りあるような会合にしたいですね。その意味で僕は将棋を勉強していてよかったと思います。将棋は金もかからない上に、頭をひねってアイデアを出さなければならないため、頭の体操にもなります。その二人とは将棋は僕の相手になりませんが、オセロならどっこいどっこいです。それからトランプも頭の体操になりますよね。これからクリスマス、お正月と休みの日がたくさんやってきます。寝正月にするにはあまりにも時間がもったいないですよね。モーニング娘も新曲の中で歌っているタイムイズマネー(時は金なり)ですよね。だからその作業所の友達にも将棋を教えてやろうと思っています。子供ならまだしももう四十も超えた大人が、駒の動かし方は知っているようですが、これから戦法から覚えるのは大変です。しかし何かのきっかけで上達したなという感覚を覚えれば興味を持ち出して、覚えるのも早いと思います。僕も子供の頃はチェスや中国将棋も覚えていて、ちょうどその上達を競い合うライバルがいて切磋琢磨し、楽しかった思い出があります。
とにかく家にいて暇をもてあまし、食うちゃ寝るの生活をしていたら健康上もよろしくないし、本当時間がもったいないです。まずはそのことから始めなきゃ収入を得れるような仕事にも就けないと思います。僕自身これを自戒の意味も兼ねて書いています。
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2005.12.04 Sunday
性の誤解
今日も神戸へ出かけてました。そしていつものスケデューるをこなしてました。今日取り立てて書いてみたいと思うことは、やはり御影の喫茶店でのことでしょうか。そこで今日は思いっきり性について文章を書き、思索にふけってました。そこで思ったことは、最近エロ本やAVビデオの氾濫のおかげで性というものが歪んでいるのではないかということです。AVではGスポット攻めの潮吹きに、クリトリス攻め、そして四十八手のテクニックの紹介など、性の情報のオンパレードです。しかしそれとは裏腹に一方でインポテンツや不感症が増えている現実はどう考えたらいいのでしょうか?僕が思うに一つは穴やクリトリス攻めなどそういうスポットばかり強調されて、女の性器全部を弄り回すとか、もみし抱くとか、さわりまくるとか、舐めまわすとかすることがおろそかにされているのではと思います。まず何にもまして男が女の性器を責めて男と女互いに共感理解し会って、時には意地悪したり、笑いころげたりして雰囲気を盛り上げることが大切です。ところがいまのセックスは膣に指を入れてぬらすことばかりを考えています。それでは女は痛いばかりでちっとも気持ちよくならないと思います。むしろ穴は最後なのです。その辺を性情報の氾濫は誤解させています。このことを思いつくまで、こんなえらそうなことを言っている僕も決して例外ではありませんでした。変化といえばお尻の穴をなめることぐらいでした。こう考えてみるとセックスにも独創性というものが快感の度合いを高める重要な鍵を握っているものと思われます。このことを思いついたのは、僕には一つ下の弟がいて、彼に僕は小さい頃ほっぺたがかわいくてほっぺたばかり触り、いくら嫌がっても止めませんでした。そのことはいじめているように見えて実際はかわいがっているという感情を彷彿させてくれました。そして弟も僕と親がいて注意されるためほっぺたを触れない位置関係にいるとき、盛んに「ベロベロバー」をしたりして、「ほっぺたを触れないだろ」とかわいい挑発をしてくるのです。それを見てどうしようもなく『こいつ』とかわいくてかわいくて仕方ないもどかしさを味わいました。それは男と男、年上と年下、兄と弟ですが、男と女の性の駆け引きのときのもどかしさとよく似ています。このことを最近思い出しているとセックスにおける独創性の考えにいたったのです。以前いまのように性の情報が氾濫していないときは確かにテクニックなどは乏しく単純なセックスが多かったかもしれません。しかしいまのようにインポテンツや不感症で悩む人間も少なかったということは、一概にいまの方が性文化が花開いているとはいえないのではと思えます。特にいまはやはり女性上位で昔はそんなことをすることは女としてはしたないと思われていたことを、いまの女性はサービス精神旺盛でするゆえ、女性上位のセックスは確かに花開いているのかも知れません。しかしそれもやはりサブセックスであって、「本当は男に責められたい。女ですもの。」と僕が通った風俗嬢も言ってました。ただそれじゃAV男優はみな独創的セックスをしているのかとなると僕もいまのところわかりません。しかしAVを見て自慰行為をするときに、AV女優ばかりでなく、そのAV男優の女をいかすテクニックの上手下手で興奮度も違ってくることも確かです。さていくら表現の自由が保障されているからといって、過激すぎたでしょうか。まあみんなが最も興味津々なところなのに一般的にはタブー視されているというこのパラドクス。そこがまた不思議ですよね。
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2005.12.03 Saturday
ずるい女
今日は朝から神戸へ行ってました。そして行き付けの喫茶店にあの娘がいました。けれど話しかけるチャンスがなく、今日も告白はお流れとなってしまいました。多分明日もシフトに入るだろうからがんばります。とにかく以前僕は女性に声をかけるとき、「男だから勇気を出して」とか、「男女の責任は男が負うべき」とか、男、男と見栄を張ってました。しかし今度は男女平等、女は男のほうから声をかけてもらいたがってるとは思うけど、女のほうからも積極的にアクションをかけてくれなけりゃ無理しない。という「どちらからともなく」惹かれあうというあえて困難な誘い方をしようと思ってます。そちらのほうが強引な言葉で口説くより、より深い関係が出来上がると思うからです。また女のほうにも一見ひ弱な男だと勘違いされかねますが、あの子なら実際にはより以上に愛情がある誘い方だと感じてくれるものと信じます。とにかくいままでの僕は女を幸せに出来ないのは、男が勇気がないせいとばかり思っていました。それは女(おんな)性善説と言う、女は社会的地位が低く、常に男よりは正しいことを言うもんだという考え方から成り立っています。しかし女も時と場合によっては間違ったことも言い、間違ったこともするのです。その視点に立って恋愛する時、時には女のほうからもっと近づいて欲しいという男の願いがあります。その声がわからぬ女には用はありません。そういう女は必ず、男がやさしくしているときはヘイヘイとついてきますが、ひとたび自分が損となればたちまち逃げてゆきます。こういう女は大阪に多い。いわゆるずるい女です。このずるさはオナニーのおかずにはなるでしょうが、ロマンとしていつまでも心に残ることはありません。そしてこのずるさというのは悪にさえ摩り替わります。その例として、男がおごってやるからと散々お金を使ったのに、女はその男からトンずらしようとしたとき、「さては俺を騙していたんやな」と逆上するパターンがあります。そのとき女は「お前がアホヤからじゃ」と姿をくらまします。そのときに男は気がついて目を覚ましても後の祭りというわけです。どうも大阪の女にこのずるさがあるように思えてなりません。もちろん男も男で、あれこれ飾り立てた言葉は建前で、本音は「ええ思いさえすればええんじゃ』というようなロマンティシズムのないのも大阪に多いような気がします。この男と女どちらも自戒し、反省せねばロマンティックな恋愛など出来ないでしょう。いい加減大阪は男においても、女においてもこのずるさに対抗する意志の強さや理論武装、そして怒り、憤りというものをもたねばなりません。さもなければ大阪にロマンチックな恋愛は成立しないでしょう。確かに大阪が好きで、住み心地がよいところだと思っている人にとっては失礼かもしれません。しかし神戸好きで、神戸が日本の中でも女性が最も美しく見える街だと思っている僕にはそう思えます。逆に大阪の女は日本で一番ずるいような気がします。それゆえ大阪を改革したい。もっと男と女が自然に寄り添え、信じあえるような街にしたい。それが大阪生まれでありながら、現在の大阪嫌いな僕の切実な願いです。
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2005.12.02 Friday
どちらからともなく
もう少しでクリスマス&お正月ですね。一年のうちで一番観光業界や飲食業界がにぎわう月日です。さて僕のほうでも前から僕のブログを読んでいただいている方にはわかるでしょうが、今狙っている娘がいてクリスマスまでには白黒決着を付けたいと思っています。明日、明後日はその待望の日となるかどうかの正念場です。これまでのパターンから言って彼女が行きつけの喫茶店のバイトのシフトに入っている可能性が高いからです。しかし彼女とは顔をあわせれば会釈する仲になっており、後は僕の「今度お茶で飲みに行かない」と告白できるかどうかにかかっています。ただ前にも書きましたが、「女は押しの一手で積極的に男として声をかけよう」というような見栄は張らないでおこうと思います。あえて「どちらからともなく、惹かれあったらいい」という危険な道を行こうと思います。確かに強引にいくというのもそれはそれで難しいのでしょうが、僕にとってはこちらがアクションをかけているのに、向こうは知らん振りでせんずりのえさにしかならないような女はお断りです。こういう自分さえよかったらいい恋愛しか出きない女は大阪に多い。その点神戸女にはひ弱さが感じられ、かわいそう、すなわち好きになる女が少なからずいます。それゆえ神戸で結ばれたい。まずはお茶飲みやメール交換友達として付き合いたい。しかし「男として男のほうから声をかけるのは当たり前」というような態度から一転して、男と女は恋愛においては平等、それゆえお互い盗み取ったりするのではなく、そしてギブ&テイクも越えた、どちらからともなく与え合って結ばれるというあえて危険でより困難な道を選びたいと思います。お互い盗みあって「性欲をみたすため男が一方的に声をかける」そんな恋愛はしたくありません。何かこういままでの反省とこれからの作戦を立てていると、今度こそはうまく行きそうです。明日あさってのブログに期待していてください
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2005.12.01 Thursday
しゃれとカラオケと大阪
今日は作業所の友達と、作業所を終えた後西九条のジャンカラへ行ってました。彼はしゃれの名人で、その方面では僕も子供の頃からやっていて自信はあったのですが、まだ上手を行きます。しかし時々しゃれを言おうとして知恵遅れのようなしゃれを言うことがあってそれには気をつけないといけません。親しい仲間の間ではよくても、見知らぬ相手のいる席では通用しないと思います。しかし作業所内ではいつも僕と彼がしゃれを言い合って、仲間を笑いの渦にに巻き込んでいます。しかししゃれはうけたときは最高に幸せな気分を味わえますが、受けなくてシーンとなり座がしらけるとこれほど惨めなことはありません。それゆえに乗り出したらそうでもないのですが、自分自身が乗る前に、そして座が盛り上がっている前に言うしゃれは勇気と、言う前によく考える必要があります。何しろ人の心理は止まることはなく絶えず動いています。それゆえおんなじ内容のしゃれでも少しタイミングが遅れただけで、そのジャストタイミングなら大うけしていただろうに、全くうけない場合があります。しかししゃれを言って共感笑いばかりしていると、時にはそういうやや下品なものでなく、もっと高貴でロマンチックな感情も味わいたくなります。そして笑ってばっかりも行かず、時には悪に対して怒りをぶつけたくなtったりもします。笑う門には福来るとはいうものの、いつもいつもではまた精神病院に入院せねばならないでしょう。だから今日はしゃれでの笑いとカラオケでのロマンチックと正義の怒り(仮面ライダーを歌って盛り上がった)を感じることが出来ました。一方彼は、美空ひばりの「川の流れのように」やもんた&ブラザースの「desire」を物まねで歌っていました。僕の歌った石の森章太郎が詞を書き、水木一郎が歌う仮面ライダーの歌詞の中で、「悪を倒す 怒りの雄たけび」と二番「悪を憎む 正義の雄たけび」そこをメロディーに乗ってかっこよく歌えば聞き手はしびれます。歌っている僕自身も決まった時は「どうだい」と仁王立ちにマイクを握れます。しかしこのアニソンもしゃれと同じで決まらなければ、普通のラブソングなどよりはるかにけなされ、笑いものにされる場合があります。そのことは現代日本が如何に正義や勇気というものを言い出せにくい国であるかを物語っています。特に「権力何ぼのもんじゃ」という大阪圏では余計です。アニソンの正義の味方の歌は、一口にいえば平等な社会の中で一つ頭をぬきんでて、おろかなことをやる大衆を笑い飛ばすような組み立てになっています。もちろんそうは言うものの同時に「みんなが 待ってた 無敵の忍者」という風に大衆に迎合するのではなく皆の幸せを祈るという、人に感謝して「どうかピンチに陥ってくれたときには助けてください』というような大衆にこびるところもなければ、前者一辺倒では殺されてしまうでしょう。こういう音楽評論が好きだというところからも容易に察せられると思いますが、僕も詞を書きます。阿久悠や石の森章太郎の詞をお手本に、もちろんラブソングは好きですが、正義や勇気の歌を書いてみたいと思っています。
それと僕はいまの現代社会、特に大阪社会の悪に強い怒りをもっています。それはひょっとしたら大阪の歴史的文化を冒涜することかもしれません。しかし正義や勇気を「アホヤ」といってバカにする大阪が嫌いです。そのずるがしこさ、人のまねをして人から芸を盗もうとし、一言の感謝もない悪の態度。これは大阪の歴史的文化なのでしょうか。しかし僕は昭和四十年代の僕にとっての古きよき大阪を知っています。人間がいまのようにすれてなくもっと素直でした。こういう大阪を取り戻すためにも、大阪生まれの神戸好きの僕ならでわの詞を書いて、曲を作り興廃した大阪の町を改革しなければならないという大きな夢を持っています。このブログでもそういう僕が作った詞を時々掲載しますのでどうかよろしく。
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