2006.02.05 Sunday
神戸女と大阪女
今日はやはり神戸の行きつけの喫茶「みかげ」に尽きる。あそこで書き物をするとほんと落ち着ける。最後また幻聴もあったけれど、概して気持ちよく文章が書けた。ほんと大阪が地獄なら、ここは天国である。
話は変わるが江戸っ子を「あほじゃ」とバカにする大阪の人間には怒りを覚える。僕も普段からしゃべる時まで江戸っ子の言葉を使いはしないが、カラオケの歌の世界では大いに使う。「江戸っ子だぜダンディー ちゃきちゃき東京」などという具合である。これは「シブがき隊」の「べらんめえ伊達男」の一フレーズである。大阪と東京どう違うといって、大阪が雑草、ガンバルマンであれば、東京は「この程度でいいだろ」という中庸の倫理を持っているところが目に付く。それゆえ江戸っ子は時には負ける。以外にひ弱である。しかしさすがに文化の街。負けたら負けたでかっこいいのである。そこに敗北の美学なるものが存在する。それは大阪では「あほや」なのである。そんな負けたら誰かが慰めてくれるという甘えの構造は大阪では通用しない。大阪には負けたらバカにされるという空気が蔓延している。ここが大阪と東京の違いである。それゆえ大阪は温かくて、東京は冷たいというのも一概には言えないのである。僕は時には負けてもいいという東京的甘えが好きである。それはがんばる。努力するなどという次元ではないのである。それは人への社会への期待が込められている一種の政治思想なのである。大阪のように「人、社会、そんなもの助けてくれるか。あほじゃ」というのと対称的である。またまた自分の生まれ故郷である大阪のことをくそみそに言っているが、ほんと大阪にいても楽しくない。神戸にいると楽しい。僕の文章の大前提にこの感覚がある。神戸の女は美しい。大阪の女は汚い。これはそのまま読めば差別言葉で訴えられるかも知れない。しかしここでいう汚いというのは見掛けが不細工で汚いというものでなく、男の言うことを聞かず男に魅せることのない大阪女が汚いといっているのである。神戸女は魅せるのがうまい。ほんと神戸の女を見ていると目はどんどんよくなるような気がする。しかし大阪の女を見ていると目が悪くなってくるのである。これは単にそれだけで済まされることではない。そしてその理由は視線そらしに他ならない。神戸では女に目を送ったらこちらを見つめ返してくることも少なからずあるが、大阪ではまったくと言ってない。その意味からも大阪の女は汚いのである。この言葉によって「君は大阪の女を差別している」というコメントを書かれてもかまわぬ。それを書いて来たら来たでこちらも反論する言葉を用意するつもりである。大阪の女の視線そらしによって、大阪の男たちの目がどれほど悪くなっているか大阪女は全く知らん顔なのである。なんとも思ってないのである。そんな汚い人間を女としてみたくない。それゆえに俺は何かあるたびに大阪女は汚いと書くだろう。大阪女が反省してましになったと見切りが付くまで。小泉首相ではないが、「俺はこのことで殺されたってかまわない。』そこまで命かけてこのことをましになったといえる日まで訴え続けたい。 |