2005.12.25 Sunday
男の女へのいじめ
今日は一人で神戸行ってました。いつものスケデュールをこなしたのですが、ウォーキングがうまく行きませんでした。またまた幻聴とめまいに悩まされました。しかしその後の御影の喫茶店で年賀状を書き、何とかめまいを治しました。
それからノートへの書き物もしました。今日一つ思ったテーマは男の女へのいじめについてです。現在は女の時代、女のいじめというものはマゾな男とサドな女の増加で語られますが、男の女へのいじめというのはセクハラにされてしまいます。しかし果たしてそうでしょうか。僕には男の女へのいじめというものが性欲を沸かせます。長く続いた女の時代の女の男へのいじめというものはどこか形骸化しています。それによって男はオナニーは出来てもセックスにはつながりません。男の女への意地悪、いたづらなどは全てこのいじめ心に発しています。この男の女へのいじめ心。これを僕は持ちたいと思っています。それにはやはり女の上に立たねば無理かもしれません。とにかく男を挑発する女のいじめには飽きてきました。そこにまったくかつてのように男の抵抗がありません。それゆえ視線をぶらせて、男の目を悪くすることでしか意味を成していないのです。それに男の女へのいじめ、具体的に言うと女をその気にさせオナニーさせてしまうような男の振る舞いのようなことでしょうか。これはセクハラではありません。しかし女はそんなことを男に知られたら困るので、みなこれをセクハラといって攻撃してきます。しかしここです。男が踏み止どまなければならないところは。ここで踏みとどまる男が少ないため、現在は性情報が氾濫しているのとは裏腹にインポテンツ、不感症社会になっているのです。確かに男の女へのいじめ、これが度を越すと性的嫌がらせとなって、女を不快にさせてしまうのでしょう。しかし兎に角いまの時代何でもかんでも男の女へのコンタクトをセクハラにし過ぎです。過剰反応しています。とりわけ女社会の関西では女の目は厳しいものがあります。男の女に対するいじめは文化になっていないのかもしれません。女が見たり、聞いたりすると思わずオナニーしてしまうような男の文化。これを関西にも創造しなければいけないと思います。女にいじめられてばかりでは、男の面目もへったくれもありません。また男も生理的にむやみやたらに女をいじめたりするようには出来てないと思います。それでもセクハラが絶えないのは、やはり男と女の文化のどこかしらの歪みから来るのでしょう。やはり女が男を挑発して男の何をいきり立たせて、自分の魅力を誇示したいと思っているのと同じく、男も女ほどではないにしても、女に発破かけたり、挑発したりして夢中に、換言すればオナニーさせるほどの振舞をしたいと潜在的に思っています。しかしそれがまたまた女の男へのいじめ返しとなり、文化として認めてもらえないのが関西の恐いところでもあります。僕はこの新しい文化を創造したい。そのパイオニアになりたい。女にいじめられて、惨めにオナニーばかりをしている関西の男があまりにもかわいそうに思えます。それが関西の男女の仲だとすればあまりにも女中心の社会で、男の立つ瀬がありません。あまりにも男が惨めです。何とかこの関西にも女をしびれさせ、「あの男腹立つ」(標準語で言えば「あの男憎らしい」)と思わせるぐらいな文化を創造したいと思います。それが引いては女の幸せにもつながると信じています。 |