バンババン

文章だったらそこそこの
ものを書けるのですが、
やれ画像やレイアウトの美
的感覚はゼロなので、これ
から向上してゆきたいと思
います。
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男女の間のいじめの考察
 今日はこれからいつもの通り神戸へ行こうと思います。あの狙っているウエイトレスの娘、いるでしょうか。何しろこないだ「一緒にお茶でも飲みに行きませんか」と誘い、そして「また来るから考えといて」といった手前、今度会うときが勝負といえば勝負です。果たしていい返事くれるでしょうか。断られたときのことを思うと、今日はいないほうがいいのにと弱気になったりします。しかし「当って砕けろ」ですよね。たとえ振られても「それじゃ他の男と幸せになってください。」とかっこつけて立ち去ればいいんですよね。しかし思えば僕も何人の女性に告白し、ふられたんでしょう。二つの指以上行っているかも知れません。しかしそれぞれに思い出もあって、それはそれでよかったかもしれません。しかし今度こそ近藤マッチの「純情物語」の歌詞じゃありませんが、「最後の女になってくれよ」と叫びたいものです。
  
 さて神戸から帰ってきました。行きつけの喫茶店へ行ったのですが、彼女はいませんでした。また明日か明後日に勝負は持ち越されました。何かほっとしたというか、断られるかもしれないという不安から解放されて胸をなで下ろした気分でもあります。しかしめそめそとしていてはいけません。もっとそれが空のそれであっても元気を出して力強く、次の一歩を踏み出さなければなりません。彼女とセックスしたい。そして思いっきりかわいがってあげたい。それどころか彼女がもういいっていっても許さず、いたぶるぐらい激しく迫りたい。この前書きましたが、女をいじめるぐらいの激しいセックスをしたい。男に対する女のいじめはもう飽きた。これからは男がもっと女をいじめて感じさせてやるべきです。特にこの関西というのは、女上位、かかあ殿下で女が男のプライドを踏みにじって、女が男をいたぶる色彩が強いように思えます。それゆえに男が女をいじめてセックスするという文化は関東ほど発達していないように思えます。具体的に言えば、郷ひろみの歌う最中のダンスというか振り付けは、明らかに女をしびれさせ、その性をいじめます。また水木一郎の正義や愛や勇気や犠牲を歌うアニソンは女ばかりではなく男をもしびれさせます。このような女をしびれさせ、性的にいたぶり、いじめるような文化。これを関西でも創造しなければいけません。僕も彼女をその標的にしたいと思います。女は男にやさしさを求めます。しかしモーニング娘の「色っぽい、じれったい」の中のフレーズに「やさしくされりゃうれしいけど、限りなく求めちゃう」というものがあります。極端に言うとやさしくなくても、自分をセックスで行かせてしまうという男のほうを女は選ぶ場合もあるのです。セックスの強い男には、単に性欲絶倫というだけではなく、男として人間として何らかの卓越性があることを女は暗黙のうちに認めるのでしょう。やさしいだけではなくそれにプラスアルファが必要だと思います。その中でとりわけ魅力的なのが、意地悪やいたづら精神だと思います。これは基をただせばいじめ心からきていると思います。いじめといえばみな悪い感情のように思われですが、人を不幸にするいじめではなく、幸せにするいじめもあると思います。僕はこれをこの大阪で広めたい。そしてそのパイオニアになりたいと思います。いじめいじめといいますが、僕にはそこに男のロマンがあります。関西女にはわからないのでしょうか。いやわからないというより、彼女達は男にロマンだといってかっこつけさせるのが腹立つのかもしれません。残念ながら関西の女の男に対する認識はこんなものです。「男にええかっこされたら腹立つんじゃ」と思う女も多いのでしょう。女の本音を持ち出すとこうなります。それゆえ関西男はもっとがんばらねばなりません。いままでえらばって来た女をギャフンと言わすためにも。僕も冒頭で言った今度出来るかもしれない彼女に、言って聞かせて納得させようと思います。そのことが彼女をもっとも幸せにする方法だと信じています。
| バンババン | 評論 | 22:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
しゃれとカラオケと大阪
 今日は作業所の友達と、作業所を終えた後西九条のジャンカラへ行ってました。彼はしゃれの名人で、その方面では僕も子供の頃からやっていて自信はあったのですが、まだ上手を行きます。しかし時々しゃれを言おうとして知恵遅れのようなしゃれを言うことがあってそれには気をつけないといけません。親しい仲間の間ではよくても、見知らぬ相手のいる席では通用しないと思います。しかし作業所内ではいつも僕と彼がしゃれを言い合って、仲間を笑いの渦にに巻き込んでいます。しかししゃれはうけたときは最高に幸せな気分を味わえますが、受けなくてシーンとなり座がしらけるとこれほど惨めなことはありません。それゆえに乗り出したらそうでもないのですが、自分自身が乗る前に、そして座が盛り上がっている前に言うしゃれは勇気と、言う前によく考える必要があります。何しろ人の心理は止まることはなく絶えず動いています。それゆえおんなじ内容のしゃれでも少しタイミングが遅れただけで、そのジャストタイミングなら大うけしていただろうに、全くうけない場合があります。しかししゃれを言って共感笑いばかりしていると、時にはそういうやや下品なものでなく、もっと高貴でロマンチックな感情も味わいたくなります。そして笑ってばっかりも行かず、時には悪に対して怒りをぶつけたくなtったりもします。笑う門には福来るとはいうものの、いつもいつもではまた精神病院に入院せねばならないでしょう。だから今日はしゃれでの笑いとカラオケでのロマンチックと正義の怒り(仮面ライダーを歌って盛り上がった)を感じることが出来ました。一方彼は、美空ひばりの「川の流れのように」やもんた&ブラザースの「desire」を物まねで歌っていました。僕の歌った石の森章太郎が詞を書き、水木一郎が歌う仮面ライダーの歌詞の中で、「悪を倒す 怒りの雄たけび」と二番「悪を憎む 正義の雄たけび」そこをメロディーに乗ってかっこよく歌えば聞き手はしびれます。歌っている僕自身も決まった時は「どうだい」と仁王立ちにマイクを握れます。しかしこのアニソンもしゃれと同じで決まらなければ、普通のラブソングなどよりはるかにけなされ、笑いものにされる場合があります。そのことは現代日本が如何に正義や勇気というものを言い出せにくい国であるかを物語っています。特に「権力何ぼのもんじゃ」という大阪圏では余計です。アニソンの正義の味方の歌は、一口にいえば平等な社会の中で一つ頭をぬきんでて、おろかなことをやる大衆を笑い飛ばすような組み立てになっています。もちろんそうは言うものの同時に「みんなが 待ってた 無敵の忍者」という風に大衆に迎合するのではなく皆の幸せを祈るという、人に感謝して「どうかピンチに陥ってくれたときには助けてください』というような大衆にこびるところもなければ、前者一辺倒では殺されてしまうでしょう。こういう音楽評論が好きだというところからも容易に察せられると思いますが、僕も詞を書きます。阿久悠や石の森章太郎の詞をお手本に、もちろんラブソングは好きですが、正義や勇気の歌を書いてみたいと思っています。
 それと僕はいまの現代社会、特に大阪社会の悪に強い怒りをもっています。それはひょっとしたら大阪の歴史的文化を冒涜することかもしれません。しかし正義や勇気を「アホヤ」といってバカにする大阪が嫌いです。そのずるがしこさ、人のまねをして人から芸を盗もうとし、一言の感謝もない悪の態度。これは大阪の歴史的文化なのでしょうか。しかし僕は昭和四十年代の僕にとっての古きよき大阪を知っています。人間がいまのようにすれてなくもっと素直でした。こういう大阪を取り戻すためにも、大阪生まれの神戸好きの僕ならでわの詞を書いて、曲を作り興廃した大阪の町を改革しなければならないという大きな夢を持っています。このブログでもそういう僕が作った詞を時々掲載しますのでどうかよろしく。
| バンババン | 評論 | 22:21 | comments(110) | trackbacks(1070) |
ジャンボカラオケ
 今日は仕事終わった後神戸へ出て、ジャンカラへ行ってきました。すると受付の女の子が限定販売を行っている三百八十円のマロンパフェが後五個になり、どうぞなくならないうちにいかがですかとしきりに勧めます。その猫なで声で勧誘され、ついその甘い声に負けて頼んじゃいました。しかし出てきたら何のこともないメニューに載っているのよりは小さい甘栗が一個気持ちだけ乗ってあるだけで、アイスクリームとホイップクリームとチョコレートソースはかかっていますが上から見えるところだけで、後大半はコーンフレークでした。あれは明らかにジャンカラにしては三百八十円と価格を高価に設定し、「安かろう、悪かろう」でなく、その味で勝負した一品でしょう。しかし少なくとも僕は満足出来ず、期待はずれでした。しかしこのジャンカラ、料金も三十分飲み放題、歌い放題で百四十円ととりわけ安くて、近辺に進出され影響を受けたたカラオケ屋は次々に看板を下ろし、まさにカラオケ界の革命的役割を果たした店舗です。ルーム料金が安いばかりでなく食材にもこだわっており、ほとんどの料理が二百八十円均一で統一されています。それゆえサラリーマンが昼休みに三十分ルーム料金百四十円を払い、二百八十円の食べ物を頼んで、飲み物は飲み放題そして気晴らしに一曲か、二曲歌ってチェックアウトという使い方も出来、しかも四百二十円ぽっきり。まさに喫茶店にもなり、ちょっとした料理屋にもなり、しかも外部からは見えない自分だけの空間でくつろげます。ほんとそこで働いている若いアルバイトも階段を駆け上がり、駆け下りて、現代の日本の不況どこ吹く風というほど元気です。僕たち中年かっこよく言えば壮年も、こんなヤングマンに負けず仕事にプライベートにがんばってゆきましょう
| バンババン | 評論 | 21:25 | comments(0) | trackbacks(1) |
NHKアナウンサー、松平定知さん
 今日は仕事を終えてから家に帰り、一風呂浴び夕食を食べてから新聞をゆっくり読みノート整理するつもりが、睡魔に襲われ七時まで眠ってました。それからNHKのニュースをいままで見てました。また九時十五分から始まる「その時歴史が動いた」が楽しみです。何が好きかといって歴史に対する興味ももちろんあるのですが、そのナレーションを務める松平定知さんのしゃべり方がかっこいいと思います。さすがNHKのアナウンサーという感じですが、決して驕った風もなくきわめて謙虚です。けれど戦国武将の智勇に長けた行動などをナレーションするときには、その声を聞いているだけでそのBGMと相伴って、本当臨場感あふれる語りを聞かせてくれます。 僕もあんなしゃべり方をしたい。そうすれば女にもてるばかりでなく、男からも尊敬のまなざしで見られることでしょう。そのためにはもっと勉強をし研鑽を積んで、これから身に降りかかるいろんな問題を解決していかねばいけないと思います。それと自分の精神病との闘病の中で壊していった精神的感覚の傷口を縫い、学生の頃あったような健康状態に戻さねばいけません。これが僕にとっては一番の課題です。僕も髪の毛の前面が後退し始め、持病の腰も悪化し、老化が始まっています。これは精神病との闘病の中で、無理しすぎたからです。もう若くないゆえ健康には留意して、「無理をせず、されど怠けず」をモットーにこれから生活して行こうと思います。
| バンババン | 評論 | 20:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
パラドクス
 男というもの自分のことが好きだといってくる女より、「あんたのことなんか嫌いよ。」と言い、知らん振りしつつ自分の姿を見せて視線を横切ってくる女のほうに感じてしまうというパラドクス。これに悩まされる。ひとりHの時は大体こういうタイプをおかずにする場合が多い。しかしあまりされすぎても男の目が横切られ、見せつけられると言うショックに、焦点が合わなくなり目を悪くさせてしまうことになる。しかし男としてもそういう遊び女(プレイガール)はたとえレイプされてもかわいそうだと思わない。単なる性の道具としか考えないからである。「ざまみらあ」と男の目を悪くしているゆえ、天の怒りが下ったのだとすら思う。現代日本男の半分以上がメガネやコンタクトをしている。老眼をかけなければ日常生活に支障を来たすと言う老人なら仕方ない。また車やコンピューターの普及により、メガネに頼らざるを得ない文明化と言う現状もある。しかしメガネの普及率世界一の日本。どう考えても男の目を悪くしたのは、そういう女の視線横切りのせいと思われる。そしてそれは暗数として闇から闇へ葬られる。女は男の目を悪くさせたのは自分自身なんだと自覚し、それに対する懺悔と罪滅ぼしをして欲しいものだ。さもないと男のセクハラやレイプは一向になくなりはしまい。「情けは人のためならず。」男の目を悪くすれば結局女の幸せにもならぬと言うことだ。
| バンババン | 評論 | 22:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
受験勉強の善悪
 今日は昨日の夜から寝ている間に風を引いてしまって、昼まで仕事をやってましたが、昼からは静養することにしました。風邪は寝ていたら治るとは言うものの、昼間ずっと寝床にいるのはつらく、パソコンぐらいならいいかと今これを打っています。それだから昨日の夜からは英語の勉強も出来てません。ほんと英語の勉強と言うのも深いですね。前にも言いましたが、ただ英語を堪能になるばかりではなく、虫食いや並べ替えと言うなにかかパズル的要素もあって、英語の勉強をしながらパズルを習っているようです。ほんと高校までは受験の勉強で、大学になってから本当の勉強が始まると言います。しかしこう考えてみると受験勉強も知能を鍛えるためにずいぶん寄与しています。だから僕は英作の勉強をしています。ただ英単語を覚えたり、英語の作文を作れたりするばかりではなく、並べ替えや当てはめが面白くて英語の問題集を開けるのが楽しくてなりません。学生はこんなことを他人と競争しながらやっているのですね。しかし競争と言うもの一人歩きしてはいけません。そこに弱者をいたわるやさしい心を育てなければ。学生は競争競争とそれに明け暮れているのかもしれません。受験の欠陥です。弱者を助ける優しい心。それが人間生活にはどうしても必要です。ふと受験勉強をしながら、その創造的なところとそこにかくれた欠陥を思い浮かべました。
| バンババン | 評論 | 14:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
平等と公平
今日も仕事が休みで神戸へ行ってました。今日の特筆すべきことは、やはり三宮から御影まで歩いて、駅の近くにある八番館というカフェで書き物をしたことです。そこで吉川栄治の「鳴門秘帳」を読み、神戸新聞を開いて、大事だと思った箇所にはアンダーラインを入れ、ノートに整理しました。そして今日一日の反省を込めてあるがまま、つれづれなるままにエッセイや評論を紡ぎました。やはりウォーキングの後の書き物というのは集中できます。ウォーキングで外の景色に慣れた目を室内で学習することは、非常にマッチしているようです。それから神戸というところほんと僕の肌に合うのか、大阪とは違いペン先が走ってくれます。大阪で書くとどうも幻聴(精神病の一つ。僕が絶えず悩まされている症状です。)が聞こえてうまく書けません。どうして僕にとって大阪と神戸こうも違うのでしょう。この事に対する言及はおいおいやってゆきます。
 さて僕はこの一週間ほど前から平等と公平という価値観についてこだわりを持ちつつ生活しています。それは「赤信号みんなで渡れば怖くない」という悪平等ではありません。いじめや差別を間近にしたとき、「そんな自分がされたらいやなことを他人にしちゃいけないや。」ということを訴えかける公平と平等です。前者の平等は簡単ですが、後者の平等というのはある意味怖い。下手すれば「こいつええかっこしよるど。いてまえ。」となりかねない訴えです。しかし僕達はこの悪の暴力に負けてはいけません。断固として、命をかけてこの悪と戦っていかねばなりません。
またこれに能力主義が加われば、若者優遇の規範といえます。ただ僕は年功序列というものに対して、決して必要悪なものではないと考えています。たとえ能力がある若者より劣ってても、今まで積み重ねてきた年輪というか経験はずっと先を行っています。その自然の摂理を軽視する集団は人間関係が決してうまく行きません。たとえ仕事における能力で劣っても人間関係の問題解決に立ち回ってくれたり、陰の立役者的役割を握っていてくれる場合も多いと思います。たとえ仕事で成功しなくても、あの人がいたゆえに揉め事を、苦情を解決できたと尊敬されていれば、その当事者は縁の下の力持ちという誇りを持てるものです。
さてこのようなエッセイや評論を、僕は神戸の喫茶やファーストフォード店で紡いでいます。これを集中して想像しているときには、幻聴も治まっています。ほんと文章を書くって奥が深く、幅も広くて、楽しいですね。僕も残りの人生、吉川栄治の生涯一書生というかっこいいものではありませんが、継続し続けたいと思います。
| バンババン | 評論 | 22:19 | - | - |
僕の女性観の変遷
こんにちは。昨日に引き続いて今日も息抜きと自己啓発を兼ねて神戸へ足を運びました。やったことは昨日とまったく同じことなのですが、今日は最後の御影の喫茶店で、雑誌置き場にプレイボーイが置いてあったのでそれを手に取り、久しぶりのヘアヌード写真を拝みました。おそらくただ自然のままにしているのではなく、手入れしたきれいな逆三角のヘアーと若いピチピチした肌のコーディネートは見るものを惹きつけました。しかし僕は四十になったのですが、そんな若いピチピチした肌を持つ女性よりも、三十後半から四十前半あたりの年齢層にも魅力を感じるようになって来ました。これももう年のせいなのでしょうか。何か二十歳前後の若い女性は、早く結婚していたら自分の娘であってもおかしくないので、そんな層をターゲットにするというの何か罪のような気もしだしてきました。そして若いピチピチギャルを若さへのジェラシィーむき出しに抱くというのは、何かいやらしすぎると思い出しました。何かたとえ男と女であっても多少男のほうが年上のほうがいいかもしれませんが、おんなじぐらいの年齢層で付き合うほうが、セックスのほうでもよりうまくいくのではないかと思い出してきました。
 僕も五年ほど前から頭の前部が後退し始め、てっぺんも薄くなりだしました。この老いを受け入れてくれる女性。そして向こうの老けた部分をこちらの元気で若返させれるようなセックス。これを欲するようになりました。これに気づきだしてから風俗遊びも何か嫌悪を感じて、前ほどはしなくなりました。だからといって熟女の魅力などと風俗雑誌に特集されているものは、どこか違うような気がします。確かに僕と同じぐらいの年齢の女性はもうほとんど結婚していて、独身でいるのは売れ残った女ばかりのような気もしますが、中には掘り出し物がないかと日々探し求めてます。「分相応を知れ」という言葉もあります。もういくら僕がかつてはハンサムといわれることが多かったとはいえ、もう四十のオッサン。二十代の女のターゲットにはならないでしょう。それとさっきもいいましたが、そういう若い女に振られる腹いせに、ジェラシィー丸出しにして抱くというのは何かいやらしすぎて変態趣味のような気がしてきました。今日は僕の女性観の変遷について書かせてもらいました。ちょっと露骨過ぎたかな?
| バンババン | 評論 | 22:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
新聞学習(NIE)
 新聞を使った学習(nie)の活用が叫ばれて久しい。僕は今日それを実際にやってみた。新聞の興味を持った記事にアンダーラインを引っ張って、ノートにそれを整理して書き写すのだ。そうすると単に読むだけでは頭に入らなかった記事の内容が、より印象深く頭の中に入る。そして記憶するためには自分なりに批判的に思索せねば頭に入らない。いいもんである。僕も今まで新聞というものを時にじっくり読んだり、まったく目を通さなかったりおざなりにしてきた。やはり新聞は特に社会人にとっての、世の中の動きを知るための何よりの教科書といえる。それを頭に入れようと無理やり読んだり、流し読みしたりしないで、アンダーラインを引っ張りノートに整理して書き写す。この作業をするだけでずいぶん頭の中に入り方が違う。それと今はもう亡き僕にコンピューターを勧めてくれた恩師から忠告されたことがある。それは「あんたの書くことはほんと範囲が狭い。もっと新聞を読んで世間の動き、大局を知りなさい。」というものだった。その言葉が今になってしみじみと受け入れれるようになった。その恩師の言葉を背に受けて、しばらくこの新聞学習を続けてみようと思う。
| バンババン | 評論 | 20:34 | comments(0) | trackbacks(1) |


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