バンババン

文章だったらそこそこの
ものを書けるのですが、
やれ画像やレイアウトの美
的感覚はゼロなので、これ
から向上してゆきたいと思
います。
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しゃれとカラオケと大阪
 今日は作業所の友達と、作業所を終えた後西九条のジャンカラへ行ってました。彼はしゃれの名人で、その方面では僕も子供の頃からやっていて自信はあったのですが、まだ上手を行きます。しかし時々しゃれを言おうとして知恵遅れのようなしゃれを言うことがあってそれには気をつけないといけません。親しい仲間の間ではよくても、見知らぬ相手のいる席では通用しないと思います。しかし作業所内ではいつも僕と彼がしゃれを言い合って、仲間を笑いの渦にに巻き込んでいます。しかししゃれはうけたときは最高に幸せな気分を味わえますが、受けなくてシーンとなり座がしらけるとこれほど惨めなことはありません。それゆえに乗り出したらそうでもないのですが、自分自身が乗る前に、そして座が盛り上がっている前に言うしゃれは勇気と、言う前によく考える必要があります。何しろ人の心理は止まることはなく絶えず動いています。それゆえおんなじ内容のしゃれでも少しタイミングが遅れただけで、そのジャストタイミングなら大うけしていただろうに、全くうけない場合があります。しかししゃれを言って共感笑いばかりしていると、時にはそういうやや下品なものでなく、もっと高貴でロマンチックな感情も味わいたくなります。そして笑ってばっかりも行かず、時には悪に対して怒りをぶつけたくなtったりもします。笑う門には福来るとはいうものの、いつもいつもではまた精神病院に入院せねばならないでしょう。だから今日はしゃれでの笑いとカラオケでのロマンチックと正義の怒り(仮面ライダーを歌って盛り上がった)を感じることが出来ました。一方彼は、美空ひばりの「川の流れのように」やもんた&ブラザースの「desire」を物まねで歌っていました。僕の歌った石の森章太郎が詞を書き、水木一郎が歌う仮面ライダーの歌詞の中で、「悪を倒す 怒りの雄たけび」と二番「悪を憎む 正義の雄たけび」そこをメロディーに乗ってかっこよく歌えば聞き手はしびれます。歌っている僕自身も決まった時は「どうだい」と仁王立ちにマイクを握れます。しかしこのアニソンもしゃれと同じで決まらなければ、普通のラブソングなどよりはるかにけなされ、笑いものにされる場合があります。そのことは現代日本が如何に正義や勇気というものを言い出せにくい国であるかを物語っています。特に「権力何ぼのもんじゃ」という大阪圏では余計です。アニソンの正義の味方の歌は、一口にいえば平等な社会の中で一つ頭をぬきんでて、おろかなことをやる大衆を笑い飛ばすような組み立てになっています。もちろんそうは言うものの同時に「みんなが 待ってた 無敵の忍者」という風に大衆に迎合するのではなく皆の幸せを祈るという、人に感謝して「どうかピンチに陥ってくれたときには助けてください』というような大衆にこびるところもなければ、前者一辺倒では殺されてしまうでしょう。こういう音楽評論が好きだというところからも容易に察せられると思いますが、僕も詞を書きます。阿久悠や石の森章太郎の詞をお手本に、もちろんラブソングは好きですが、正義や勇気の歌を書いてみたいと思っています。
 それと僕はいまの現代社会、特に大阪社会の悪に強い怒りをもっています。それはひょっとしたら大阪の歴史的文化を冒涜することかもしれません。しかし正義や勇気を「アホヤ」といってバカにする大阪が嫌いです。そのずるがしこさ、人のまねをして人から芸を盗もうとし、一言の感謝もない悪の態度。これは大阪の歴史的文化なのでしょうか。しかし僕は昭和四十年代の僕にとっての古きよき大阪を知っています。人間がいまのようにすれてなくもっと素直でした。こういう大阪を取り戻すためにも、大阪生まれの神戸好きの僕ならでわの詞を書いて、曲を作り興廃した大阪の町を改革しなければならないという大きな夢を持っています。このブログでもそういう僕が作った詞を時々掲載しますのでどうかよろしく。
| バンババン | 評論 | 22:21 | comments(110) | trackbacks(1070) |


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