2005.10.15 Saturday
教会でのときめき
今日はキリスト教会のミニ集会に行ってました。普通の日曜日に行われる礼拝と基本的には変わりないのですが、おでんや焼きそばなどの軽食とお菓子やコーヒーが出ました。そしてメインはなんと言っても牧師先生のメッセージです。そしてその際「人はいったい何のために生きていますか?」と牧師が僕に名指しで問われました。びっくりしてちょっと躊躇しましたが、「愛する人のため、ひとから愛されるため」と答えたら牧師もおんなじですと答えらました。仕事場の年下の上司が、「僕が毎朝挨拶してくれる隣の若い主婦がいて楽しみです。」と言ったら、「ほんの一つでいいからときめきがあれば人は幸せになれますね。」と返してました。ひょっとしたら愛なんていうのもこのときめきから始まるのかもしれません。その意味で毎朝の挨拶は大切ですよね。ところが僕は何を隠そうつい最近まで大の挨拶が苦手な人間でした。それは目が悪く人の顔がよく見えるまで近づかないとわからず、挨拶したときには「このオッサン挨拶もようせんだめ人間や」と勘違いされ、そっぽを向かれた後と言うことがよくありました。それと人というのを批判的に分析したかったと言う意識もあったのも挨拶をしなかった理由です。しかしその挨拶を上手に出きないことを悔しく思い、またそういう挨拶一つも出来ないところを知っている人に見られたら、「このおっさん嫌われ者やわ」と思われかねないと言う危機感を感じてようやく目が覚めました。それでこうなったらもう勘で目線をあわす人合わす人に自分が先に頭を下げ平身低頭すると言う極端な作戦に出ました。そうすると今まで「あのおっさんは挨拶一つせんかったけど、最近変わったな」と言う風に見られ何とか危機を出しました。だからそれからですよね。人を批判的に観察することをしたければ。僕は順番を間違っていたんだと思います。しかし今でも一つやりたくないのは挨拶して笑顔を見せながらも、こそこそ物陰から覗いては人の様子を伺うこと。そういう汚い人間にだけはなりたかない。僕は挨拶は下手でしたが、大学の講義ではずっと一番前に陣取って講義を聴いていました。それでいつも気になっていたのが後ろの人の陰に隠れて先生や他人の気色ばかりをうかがっているやつ。そういうやつは嫌いでした。「男ならばな。自分が先頭に立ってみなを引っ張るぐらいの気概をを持ちやがれ」と森田健作が言うようなセリフを言わんばかりに情熱に燃えていました。本当あの頃は勇気と闘争心がありました。今はそればかりでも上手くいかず、やはりどこかでごまかして許すところもなければ死んでしまうと言うこともわかりましたが。
さて教会の話から挨拶の話へすすんできましたが、今日の教会でも二、三ときめきがありました。スタッフの女でやたら僕の前を横切る女がいるのです。その人には依然僕のほうからメールでラブレターを書いたのですが、「私は神に献身するつもりです。だから今後もうメールをしてこないでください。」と言う返事を受け取った経緯がある女でした。しかしそれを良い方に解釈すると「もしあなたがクリスチャンとなり、神に仕えると約束してくれたら話は別ですが」と言う含みを持っていたのかもしれません。それとも単に僕の視線は女を感じさせるのに向いているゆえ、視線だけで感じさせて欲しかったのかもしれません。しかし僕は思うのですが、男は女を見て感じますが、女は男に見られて感じるのではないでしょうか。だから女はセックスアピールを感じる男を見つけると必ずその前を横切ります。だからその女性も僕の前でそういうことをするということはちょっとは僕に未練があって、仲直りしたがっているのかも知れません。しかし明日の一番大事な日曜礼拝には行きません。僕は神戸へ行って書き物をしているほうが楽しい。その楽しさに比べたらその子の魅力も色あせます。その子に対してはちょっとかわいそうですが、僕は神戸を選びます。ちなみに教会は西宮にあります。 |