2005.09.27 Tuesday
平等と公平
今日も仕事が休みで神戸へ行ってました。今日の特筆すべきことは、やはり三宮から御影まで歩いて、駅の近くにある八番館というカフェで書き物をしたことです。そこで吉川栄治の「鳴門秘帳」を読み、神戸新聞を開いて、大事だと思った箇所にはアンダーラインを入れ、ノートに整理しました。そして今日一日の反省を込めてあるがまま、つれづれなるままにエッセイや評論を紡ぎました。やはりウォーキングの後の書き物というのは集中できます。ウォーキングで外の景色に慣れた目を室内で学習することは、非常にマッチしているようです。それから神戸というところほんと僕の肌に合うのか、大阪とは違いペン先が走ってくれます。大阪で書くとどうも幻聴(精神病の一つ。僕が絶えず悩まされている症状です。)が聞こえてうまく書けません。どうして僕にとって大阪と神戸こうも違うのでしょう。この事に対する言及はおいおいやってゆきます。
さて僕はこの一週間ほど前から平等と公平という価値観についてこだわりを持ちつつ生活しています。それは「赤信号みんなで渡れば怖くない」という悪平等ではありません。いじめや差別を間近にしたとき、「そんな自分がされたらいやなことを他人にしちゃいけないや。」ということを訴えかける公平と平等です。前者の平等は簡単ですが、後者の平等というのはある意味怖い。下手すれば「こいつええかっこしよるど。いてまえ。」となりかねない訴えです。しかし僕達はこの悪の暴力に負けてはいけません。断固として、命をかけてこの悪と戦っていかねばなりません。 またこれに能力主義が加われば、若者優遇の規範といえます。ただ僕は年功序列というものに対して、決して必要悪なものではないと考えています。たとえ能力がある若者より劣ってても、今まで積み重ねてきた年輪というか経験はずっと先を行っています。その自然の摂理を軽視する集団は人間関係が決してうまく行きません。たとえ仕事における能力で劣っても人間関係の問題解決に立ち回ってくれたり、陰の立役者的役割を握っていてくれる場合も多いと思います。たとえ仕事で成功しなくても、あの人がいたゆえに揉め事を、苦情を解決できたと尊敬されていれば、その当事者は縁の下の力持ちという誇りを持てるものです。 さてこのようなエッセイや評論を、僕は神戸の喫茶やファーストフォード店で紡いでいます。これを集中して想像しているときには、幻聴も治まっています。ほんと文章を書くって奥が深く、幅も広くて、楽しいですね。僕も残りの人生、吉川栄治の生涯一書生というかっこいいものではありませんが、継続し続けたいと思います。 |