2005.11.28 Monday
吉川栄治文学論
今日はいつもと同じく仕事があり、終わってから神戸へ行ってました。今夢中の吉川栄治著の『江戸三国志』を読んでました。三巻あるうちの一巻をようやく読み終わり、淳久堂本店で二巻を買いましたが、なんと九百二十四円もしました。その内容の要約まで少し複雑すぎて僕には出来ませんが、いままで読んだ吉川栄治シリーズの中でも屈指の面白さで、食い入るように没頭して読んでいます。しかし一つ思ったのはおんなじ本でも神戸で読むのと大阪で読むのではその内容の読解が少し違うということです。書き物をしているときも思うのですが神戸と大阪ではその文体まで変わってきます。大阪はその奥深くまでわかり、神戸は広く浅くわかるとでもいいましょうか。だから僕にしてみたらおんなじ本でありながら二通りの味わいを楽しんでます。どちらがいいかは一概に言えず、それぞれ味わいがあります。しかし吉川栄治は時を経たいまでも国民文学と称されるように、独特の美しい文体で没頭したら病みつきになります。東京圏のほうでは国民文学かもしれませんが,大阪圏では「江戸っ子の粋とはなんぞや」と知るには格好の文学だと思います。いわば「男の文学」といえます。ただ女性の揺れる感情の機微をうまく捉えていて、女は男を立てるものというように書かれてはいますが、決して女を差別したりはしていません。いやそれどころか現代日本の女が男をなめて、バカにする風潮へのアンチテーゼとして痛快な文体を味わせてくれます。それゆえに現代日本、特に大阪圏では古いとか時代錯誤とか言わずに、吉川栄治をもう一度読んで見られると男の生き様というものが見直せます。大阪圏では女が強すぎます。男がダーティーすぎます。あの空手の巨匠大山倍達のことを描いた梶原一騎の名作「空手バカ一代」の歌の歌詞に「醜い利口になるよりは きれいなバカで生きてやる」というものがあります。これはまさに東京が大阪を高みから笑っているような歌です。しかし時と場合によったらこういう封建社会を賛美するようなセリフも、自由平等社会を批判するアンチテーゼとして僕たちの心を揺さぶります。
さてどうでしょうか。ちょっとした文学論になったでしょうか。そういう僕もこの「江戸三国志」を読み終わった後は少し考え方も変わっているかもしれません。そのときが今から楽しみです。 |